先日、映画「名探偵ピカチュウ」見に行ったんですよ。
で、面白かったことは面白かったんですが、なんとなく物足りなかったんですね。
で、なんだろうなーとあれこれ考えてて、ふと気が付いたんですね、主人公が「自らの意志と能力で苦境を乗り越える」場面があんまりなかった、と。
気持ちが全然ないわけじゃないんですが、なんというか、一本気な頑張りとか、その場の勢いとか、その場のタイミングとか、そういうのがたまたまうまく行ったのかな? って感じで苦境を乗り越えてるというか。主人公自身の「○○したい!」という意志と持ち前のスキルがうまいこと合致した行為って、とあるポケモンへの聞き込み場面と、最後の最後のほんとうに最後の場面くらいではと思うんですね。
父親との色々で、今一つ乗り気になれないままピカチュウと謎に取り組むことになっちゃった主人公の、状況に流されてじゃない、やぶれかぶれでもない、運よくでもない、今、自分の意志でこうしたいんだ! そのために有効な手はこれだ! そして掴んだ! っていうのを、もっと強烈に見たかったのかもね自分…とまあ、そう思ったわけでございますよ。
で、ですね。
そこまで考えてて、ふと「これって、自分の創作にも当てはまるのでは」と思ったんですね。
よく言われるんですね。
「なにも起きない」「物語に起伏がない」「トラブルが起きない」「ドラマがない」「主人公特に何もしてない」…ということを。実際、高校・大学時代のセンセはほとんど何もしてない(苦笑)。
ただ、自分では、それなりに事件が起きてる状況を描いてるつもりでした。
だから言われるたび「なぜ…」って思いもありました。
「主人公が基本何もしない」というのは、申し訳ない自覚ありました(苦笑)。
でもまあ、昔の自分は「額縁的主人公(なんだっけな…月刊MOEだったかな、ブラックジャックのことをこう表現してるコラムがあったんだよね)だからー」と、逃げを打ってたわけです。
さて、私は「自分の意志と力で行動する主人公」をどんだけ描いているのか?
というわけで以下、先のような感想をもらうことがダントツ多かった、かつ、投稿などで講評をいただく機会が多かった古いものをひも解き、検証・反省してみようかと思います。
…長いよ!
某アカウントでは「キャベツ(2008年)」を挙げましたが、その後さらにさかのぼりました。
(っても「いかにも自分で考えた工夫と努力をした様子をしっかり描いた主人公」という意味では、あれは確かに最初かもしれない)
一番古いとなると、やはり一弘でしょうか。
高校生編の原稿は手元にありませんので、大学生編の原稿から。
↑「てるてるぼうや」(1998年かな?写真は2001年加筆分)
↑「つながり」(2002年)
トリオの中では一番グイグイ行動するタイプではありますが、今見るとそうでもなく、どちらも暴走しかける一弘に陣内が一言物申して行動を抑制し、それを傍観する青瀬のセンセ、という関係性になってます。
(余談ですが、実は大学編の未発表小説がありました。それだと「突っ走る一弘・本当は一弘の望みをかなえたいけど自分の片想いの感情と一緒に一弘の行動も抑制しがちな陣内・ただの傍観者と思ってたらブレーキ役として陣内に頼られてた青瀬」という関係性になっていて、漫画よりは色々自由度が高かったですが、陣内に窘められて引く一弘、というのは同じでした)
当時はこれでもかなり行動派を描いてるつもりだったんですよ…今見るとめっちゃおとなしい…ごめんな…。
ちなみに「つながり」は、世界との関係性が切れてしまった青瀬が、自分と世界をつなげていたものを探しに地下世界を歩き回るんですが、何を探せばいいかに気づくまで特にガツガツ探してなかったりする。センセの「自分の存在に対する自信のなさ」みたいなのがよく出てるけど、主人公としてはどうなんでしょう(汗)。
(更に余談ですが、当時「つながり」の青瀬の↑のセリフや、「てるてるぼうや」の陣内の↓のセリフに対して「らしくない」「スカしてる」といった感想をそれぞれ別の方からいただいたことがありました。青瀬のセリフは「人には奥手なのにお化け相手には饒舌」というのを表現したつもりでしたが、陣内のとあわせて考えると「行動の代わりにセリフでそれっぽいことを言って何かをしたつもりになってた」のかも、と、今回ちょっと思いました)
一弘に関しては、太った猫氏が「はぐれ奇譚」で、エンジン全開の一弘を描いてくれてます。本来の一弘はこうなのかもしれないけど、逆に私が原作小説の元気さを表現することがなかなかできてなくてなんかもう…いや、はぐれに関してはとにかく原稿進めような自分…。
↑「はぐれ奇譚」の一弘登場シーン。これでも原作より大人しい。
続いて「C級くらいむ劇場」のヴイ社長。(2001年)
「三度の飯よりイタズラが好き」「歩くビックリ箱」という異名の社長。今見ても比較的好き放題してると思いますが、色々あってこの1作にしか出て来ませんし「C級くらいむ劇場」自体がこの話で実質終了しました。
この漫画が元で人間関係上のもめ事が起きたことや、キャラの見た目が狩谷さんとかぶりまくった(モデルが同じだから当然ですが)というのもありますが…単純に話が作れなかった、というのもあると思います(汗)。キャラが自分の能力超えてた。
トラブルに対する解決能力は高いのですが、行動が必ずしも善行とは限らない(トラブルの原因にもなる)のも、この人の特徴。よりビックリさせられる行動を選ぶ。止められる人は誰もいない。
…もう少し頑張って描いてたら、自分の漫画のタイプが変わってたでしょうかねえ。
「なごみ二畳敷(2003年?)」の将棋部(仮)(名前が作中に出てこない)。
にいがたマンガ大賞に応募して入賞したんですよね…懐かしい。
(写真は当時の原稿のコピー。当時、原稿は入賞したら返却不可だったのよ…)
休憩室の一角にある2畳の畳で活動してた将棋部(仮)のふたりが、その畳でリフレッシュする魔物たちの秘密を知り…って話です。
自分ではそれなりにトラブルが起き、がんばって行動してるように描いてたつもりですが、講評では「事件を起こしてほしかった」といただきました。
確かに今見ると、その講評の意味はわかる。人がキレやすいという事件しか起きてないし、解決に動いていても、あくまで「安全な範囲」のことしかしてない。断られたら引く。囲碁部とだけちょっとぶつかるけど、ここは逆に余計という感想をいただいてました。難しい。
ここで一番たくさん「何も起きない」という感想をいただいた「うちの師匠が日本一!」(小説「モザイクの魔術師」のパイロット版漫画)を出したいところですが、没パイロット漫画や小説版と絡めぬわけにもいかず、そうなるとこれだけで記事が一本できるくらいになりますので、こちらは割愛。
漫画版での弟子のかりんは、行動力がかなりの空回りで、師匠ゼンダに大事にされつつも、師匠の自信のなさから、最後まで魔法使いになることは拒否られます。
今読むと、確かに波風のほとんどない物語ではあります。小説版ではその辺、多少は改善できてるといいのですが。
続いて「海岸ウォーカーズ(2004年)」の岬(黒髪の子の方)です。
こちらも投稿作で、商業誌では落選ですが、某同人誌で佳作をいただきました。ありがとうございました。
この漫画を載せた「幻想小さじ1」は、いまだに私の同人誌頒布数トップです。ありがたい。
岬は、こうした方がいいと思ったことは気さくにやっちゃう人。確か、当時の職場の人の行動ぶりを参考にしたんでなかったかな。すごい仕事できる人だったのですよね。「あ、仕事ってそういう風にガンガンしていいんだ」って、目からウロコだったんですよね。
で、作中でなぎ坊主(一つ目のおばけ)が、なぎさ(もう一人の女子)のことを言うセリフ「ここに来るだけでもずっと行動してる方になるんだよね/それ以上を急にやるのはまだ大変みたいなんだ」ってのが、もうこれまさに当時の(今も)自分そのままです…。
あと、岬の行動力は「良い事」として扱われてはいなくて、↑の部分でも、もめ事の火種みたいになっています。
20年前から描いてる狩谷さんですが、基本的に旧シリーズでは聞き役に徹してて、特にこれといった行動はしてません(汗)。全くしてないわけでもないのですが、逆に、行動してるタイプの話は没になってたのだと思います。
たとえばこちら→
http://littledipperinn.michikusa.jp/tanpenpage/tanpenpict/kariya2.jpg以前別の記事で参考として挙げたものですが、幻の2話目です。狩谷さんが犯人の凶器を取り上げるシーンがあります。新シリーズでもあんまり見かけないようなアクティブさです。でも結局この話は没となりました。
で、いよいよあの人ですよ。
狩谷さんの相談日誌・5「味方のスキマ(2005年)」の吾妻先生です。
厳密には「ゲストキャラ」になるとは思いますが…今ならわかる、この異質さ。
良かれと思ったことはする、というのは一弘や「海岸ウォーカーズ」の岬と同じなんですが、陣内やなぎ坊主にたしなめられて一旦引くキャラ達に比べて、この人は引かないんですよ。狩谷さんに(比較的大声で)注意されても秒で「黙れ」と返す強メンタル。
また、小説「モザイクの魔術師」のゼンダや新シリーズでのアガツマ先生とも違い、「時には自分を押し殺してでも正しい行動をしようとする」ということもない(最後にちょっとやって失敗する)。「自分がそうしたいから」行動するのは「C級くらいむ劇場」の社長に近い。ただ社長とは違い、その行動に強い信念の地盤と悩みが(一応)ある。
(計算して描いたわけではなかったんですが「教師になった理由」に関しては、正直、新シリーズよりよくできてた、と思う)
そして、最終的に狩谷さんや教え子に(一部だけ)認められます。その行動力が必ずしも「良くないこと」のままで終わらない。
当時、この漫画は「本当に出していいのか」って、延々悩んだんですよ。悩んで悩んでmixiで泣き言いったり、親に読んでもらったりして、結局イベントで頒布したんですが、本当に悩んだ。
「なんというか、暗さや偏見やグロいどろっとしたものが出てる気がする。」と、当時のmixiの日記に書いてました。
暗さや偏見はさておき、どろっとしたものは相当出てる気がする。吾妻先生の陰で霞んでしまった村森さんが、並行して「学校に渦巻く感情のふきだまり」と対峙し、最終的に取り込んでしまってるのは、今読むと示唆的に思う。
抑制を利かせないものを世に出すことが、相当に怖かったんでしょうかね自分。
まあ、むきだしは怖いよね。ガードがない。
でも、そういうののほうが面白いというのも、今ならわかる。
昔の漫画は、行動力に対して強い抑制をきかせていました。あまり逸脱した行為をしないキャラクター描写と物語を選び、高い行動力にはペナルティや抑止をかけていました。それが「何も起きない」という評価につながったんだと思われます。
それを、吾妻先生(と、あの漫画を評価してくれた父や読者の方々)が変えた。
もしかしたら自分は、吾妻先生でようやくキャラを描くスタートに立てたのかもしれない。
当時いただいた感想の数々は、その時はよくわかりませんでしたが、本当にありがたい言葉だと、今ならわかります。
理解できるようになるまで、時間をかけて、ようやく、ちょっとづつ進化できてきたのかなあ、と、思っ…ても、いいでしょうか…?(まだ自信ない)
このあと結婚によりブランクがあき、活動再開後も主人公と限らず、まゆさん、早乙女、新シリーズの狩谷さんやアガツマ先生、震災後のセンセや幽玄さん…と、自分の意志で行動する系キャラクターの描き方にも変化やバリエーションが多少出てきたとは思うのですが、さすがに長すぎる! そして正直、この時点でもまだどっか格好つけてる! ぶっちゃけきれてない! でもどこがどうかはわからん!
というわけで、この記事は終わり! 後になってから「何カッコつけて書いてんだお前―!」と悶えることにします。